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盛岡地方裁判所 昭和62年(行ウ)3号 判決 1990年1月18日

原告 千葉菊次郎こと千葉菊治郎

被告 釜石労働基準監督署長

代理人 中島重幸 及川正宏 菅原利美 ほか三名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告に対して、昭和六二年四月二四日付でした「労働者災害補償保険法に基づく障害補償給付は支給しない。」旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和三五年八月一日、日作開発興業株式会社(以下「訴外会社」という。)大峰鉱業所に削岩夫として採用され、昭和四六年一〇月二〇日、同社を定年退職した。

2  原告は、右大峰鉱業所に勤務した間、騒音作業に従事し、そのため、両側感音性難聴による聴力障害に罹患した。

3  原告は、昭和六二年三月一六日、被告に対して、業務に起因する両側感音性難聴による聴力障害を理由として、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく障害補償給付を請求した(以下「本件請求」という。)ところ、被告は、同年四月二四日、労災保険法に基づく障害補償給付は支給しない旨の決定(以下「本件処分」という)をした。

4  そこで、原告は、昭和六二年六月二二日、労働者災害補償保険審査官に対して、審査請求をし、この請求は、同日受理されたが、右受理の日から三ヶ月を経過しても、右審査請求に対する決定はなされていない。

よって、原告は被告に対し、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は、認める。

2  同2のうち、原告が難聴であることは認めるが、その余は否認する。すなわち、原告は、病院で診察を受けた当時七〇歳という高齢であり、しかも、原告の聴力は被告担当官と面接するたびに低下しており、このことからして原告の難聴は老人性難聴であると推認される。

3  同3、4は、認める。

三  抗弁

本件請求にかかる障害補償給付を受ける権利(以下「本件障害補償給付請求権」という。)は、昭和五一年一〇月二〇日の経過により消滅時効の完成によつて消滅したものであり、被告は右の消滅時効を援用して本件処分をしたものであつて、該処分は適法である。すなわち、

1  労災保険法四二条は、障害補償給付を受ける権利(以下「障害補償請求権」という。)は、「五年を経過したときは、時効によつて消滅する。」旨規定する。これは、右権利については行使が容易で、これらの権利関係をいたずらに長期にわたつて不安定な状態のもとにおくことは相当ではなく、さらに煩瑣な事務をますます複雑化するおそれもあることから、特に五年の短期消滅時効にかからせることとしたものである。

そして、障害補償給付を受ける権利その他の労災保険法上の給付請求権(以下「労災保険給付請求権」という。)は、業務上の障害を生じたとする者が労災保険法四二条の所定の期間内に所定の申請書及び必要書類を労働基準監督署長宛に提出することにより、行使されたことになるのであり、支給の許否に関する決定が一定期間内になされなくとも時効中断のための申請を繰り返す必要はなく、右書類の提出があつたときに右権利の時効の問題はなくなるのであるから、労災保険法四二条は、明文上「時効」という文言を用いているものの、その実質は保険給付請求書の提出期間であり、除斥期間の性質を有する。したがつて、時効に関する規定の適用は排除され、当該労働者につき支給事由の生じた時、すなわち、障害補償請求権についていえば「災害補償の事由が生じた」時(労災保険法一二条の八第二項)に、その除斥期間は進行を開始すると解すべきである。

2(一)  また、仮に、労災保険法四二条が、消滅時効を規定したものであるとしても、右消滅時効の起算点については、労災保険法に特別の定めがないので、一般法である民法一六六条にしたがい、権利の行使が可能となつた時、すなわち権利の行使につき法律上の障害がなくなつた時からその期間が進行するものと解すべきである。

この点に関し、不法行為の消滅時効の起算点(民法七二四条)が類推適用されるとする原告援用の後記判決例が根拠とする諸点は、その論拠足り得ないというべきである。すなわち、

<1> そもそも労災保険給付請求権については、災害は一定の雇用契約関係にある特定の使用者のもとで生じるものであり、いわば加害者及び損害を直ちに知り得るものであり、業務起因性についてもいわゆる常識判断で認識しうるものがほとんどであり、必ずしも専門的、医学的鑑別判断が必要であるともいえず、不法行為と同視しうるほど権利行使が困難であるとは認め難い。たしかに騒音性難聴については、労働基準監督署長が業務起因性及び障害等級を判断するに当たつて、専門的、医学的鑑別診断が必要とされており、通達においても詳細かつ厳密な諸検査の実施が要求されているが、このことと当該労働者が自己の難聴を騒音職場に従事していたことによるものと判断して労災保険給付を請求することとは別であり、騒音職場において騒音に曝露されていたことと聴力障害の自覚があれば、事実上も給付請求権を行使することが可能であるというべきであり、専門的、医学的鑑別診断が必要とされるのは右請求権を行使した後の労働基準監督署長側の認定の問題である。

<2> また、労災保険給付請求権は、業務上の負傷又は疾病について何ら帰責原因のない政府に対し被災労働者の救済と生活保障を目的として、使用者側の帰責事由の有無を問わず保険給付を請求する権利として認められた公法上の権利であるし、それはまた業務上の災害又は通勤災害によつて被つた労働者の稼働能力の喪失部分、すなわち労働者の生命、身体、財産などの損害を補填するためのものであつて、精神的損害(慰謝料)や物的損害は保険給付の対象外であるから、民法上の損害賠償請求権と労災保険給付請求権は両立するものであり、労災保険給付が損害賠償に取つて代わるものでないことは明らかであり、不法行為に基づく損害賠償請求権とは異なつた性格を有するものである。また、不法行為に基づく損害賠償請求の場合、相手方を加害者と決めつけて不法行為責任を追及し、訴訟になれば要件事実の確たる証明が要求されるのであるから、被害者の認識は、単なる憶測や推測では足りないのであるが、労災保険給付請求権の場合には、最初の請求手続を行いさえすれば足り、自ら積極的に証拠を収集しなければならないものではなく(医師の診断書等は調査事務の便宜のため要求されているにすぎない。)、損害の発生及び業務起因性等の調査は、請求を受けた労働基準監督署長において全面的に行うことになつており、被災労働者が権利行使に当たり、実質的な証拠に基づき要件事実を認識しておくことも、これを前提として権利の存在を確知しておくことも必要ではないものであり、両者は制度そのものにおいて相当の差異があるものである。なお、原告は、労災保険給付と不法行為に基づく損害賠償との間の調整規定が存すること(労災保険法付則六七条)を、被告の主張に対する反論の論拠とするが、相当ではない。

<3> 労災保険法が、被災者である労働者の救済とその生活保障を目的とするものであることは、そのとおりであるが、一方で同法は、先にも述べたように、業務上の事由により障害を受けたとする労働者に対し、労災保険給付について所定の書面を提出してこれを請求しさえすれば足り、保険給付決定が合理的に可能であるという程度に確たる医学上の診断や法的な知見に基づいて行う必要はないのであり、これにより、労働者に迅速かつ容易に保険給付を受けることができることを制度化しているものなのである。

更にまた、消滅時効の起算点を業務起因性の知不知という専ら被災者側の主観的事情によつて左右させることは、消滅時効の起算点を不明確にし、労災保険給付請求権をめぐる権利関係をいたずらに長期にわたつて不安定な状態におくことにより、労災保険法四二条が法律関係の安定と画一的な処理を図るために五年の短期消滅時効を定めた趣旨を没却することになる。このことは労働安全衛生規則五一条及び五九一条が労働安全衛生法によつて事業者が作成する記録の保存期限を三年ないし五年と定めており、労働者が当該事業場を離職して五年も経過すれば、当該事業場の作業環境に関する記録及び労働者の健康管理の各記録も消失してしまうことになることも右時効の起算点の解釈に当たつて考慮されるべきである。もし民法七二四条の類推適用を肯定すれば、離職後、相当期間経過後に請求がなされることを許すことになり、在職当時の証拠関係の散逸も懸念され、調査に困難を生じるなど大量に行われる労災保険給付の煩雑な事務をますます複雑化させて支給手続を停滞させ、全体としてみるときはかえつて被災労働者の保護に悖ることにもなりかねない。更に、民法七二四条の場合と比較してみても、同条による場合は、加害者及び損害を知つた時を起算点とする一方で三年という短い時効期間を定めているのに対し、労災保険法四二条に民法七二四条を類推適用するときは、まず、病状が固定し、業務起因性を覚知した時から五年は時効にかからないことになり、さらに支給決定がなされてから会計法三〇条による時効にかかるまで五年を要するのであるから、結果として不法行為に基づく損害賠償請求権よりもはるかに保護が厚いことになる(もし、民法七二四条類推適用説が、同条後段の二〇年の除斥期間を類推適用しないとすればさらにその不合理は著しくなる。)

(二)  しかして、障害補償給付は、「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおつたとき身体に障害が存する場合」に当該労働者の請求によりこれを支給すべきものであつて、このことは、労災保険法一二条の八、労働基準法七七条の明定するところである。したがつて、右支給事由の生じたとき、すなわち、業務に起因する負傷又は疾病が「なおつたとき」に当該労働者による障害補償給付請求権の行使は可能になるものというべきところ、右にいわゆる「なおつたとき」というのは、「急性病状が消退し、慢性病状は継続しているが、一般的にそれ以上治療を続けても医療効果が期待しえなくなり、かつ、その病状が固定した状態になつたとき」を指すものと解すべきであつて、このことは、昭和二三年一月一三日付基災発第三号労働基準局長回答によつてつとに明らかにされているところである。

そして、現在の一般的・標準的な医学上の知見によれば、騒音性難聴は、騒音作業を離脱すれば、その進行が止まり、その後は増悪しないものとされており、また現段階では、これに対する有効な治療方法が未だ発見されていないことから、その騒音作業を離れた日をもつて症状固定するものと解されており、労働省としても、「騒音性難聴については、強烈な騒音を発する場所における作業に引続き従事しなくなつた日以後は増悪しないものとされており、また、治療の効果も認められていないことから、その時をもつて治癒とし、消滅時効の起算日とするのが相当である。」(昭和五六年七月一六日労働基準局長事務連絡第三三号の一)として運用してきたものである。

(三)  これを本件についてみると、原告は、昭和四六年一〇月二〇日をもつて最終的に強烈な騒音を発する場所における作業から離れたことが明らかであるから、本件障害補償給付請求権については、その翌日である同月二一日から労災保険法四二条所定の消滅時効の期間が進行するものと解すべきである。そうすると、本件障害補償給付請求権は、本件請求の日よりも以前である昭和五一年一〇月二〇日の経過とともに既に時効によつて消滅するに至つていたというほかない。

(四)  また、仮に労災保険法四二条に民法七二四条が類推適用されるとしても、騒音職場において長時間騒音に曝露された労働者に聴力障害が生じることがあることは、一般に広く知られていることであり、これに加えて原告の場合は、訴外会社に勤務するようになつて二、三年した頃から、既に聴力障害が生じていたことを自覚し、かつ、それが騒音に基づくものであることを知つていたことは明らかである。したがつて、原告は、最終的に強烈な騒音を発する場所における作業から離れた昭和四六年一〇月二〇日当時、それが騒音被爆によるものであることを知つていたことになるから、結局本件障害補償給付請求権については、その翌日である同月二一日から労災保険法四二条所定の消滅時効の期間が進行し、本件請求の日よりも前である昭和五一年一〇月二〇日の経過とともに時効によつて消滅するに至つていたというほかないことになる。

四  抗弁に対する認否

抗弁のうち、原告が強烈な騒音を発する場所における作業から離れた日については認めるが、症状固定の時期並びに原告が障害の存在及びそれが業務に起因するものであることを知つた日については否認し、法的主張については争う。

そもそも「労災保険法四二条の障害補償給付請求権の時効は、当該業務に起因して発生した傷病の症状が固定し、かつ当該労働者が右障害の業務起因性を知つたときから進行するものであり、このことは、既に、高松高等裁判所昭和四三年七月二〇日判決・訟務月報一四巻八号一四頁、富山地方裁判所昭和五四年五月二五日判決・判例時報九三九号二九頁及びその控訴審の名古屋高等裁判所金沢支部昭和五六年四月一五日判決、岐阜地方裁判所昭和六〇年四月二二日判決・労判四五二号及びその控訴審判決である名古屋高等裁判所昭和六一年五月一九日判決・労判四七六号二三頁等によつて判示されているところである。

1  被告は、障害補償給付請求権の行使が、通常の不法行為における損害賠償請求権の行使に比して容易であつて、主観的容態を考慮しなくても被災者の保護に欠けることがないとするが、前掲諸判例は一致して「専門的、医学的な鑑別診断を経ることによつて初めてその業務起因性を確認することができるという類のものも決して少なくはない」としているものであつて、そのことは「公知の事実ないしは常識」であるし、また、請求は認定の要件を充足しているとの判断や資料を具備しなければ現実にはありえず、裏付けのない請求行為も可能とするのは観念的な空論に過ぎず、騒音性難聴についていえば、労働基準監督署長が業務起因性及び障害等級を判断するに当たつて、専門的、医学的鑑別診断が必要とされており、通達においても詳細かつ厳密な諸検査の実施が要求されていることは被告の認めるとおりであつて、請求者に医学的アドバイスと認定に耐え得る医学的資料がなければ請求行為は現実的には有り得ないものであつて被告の右主張は失当である。

2  障害補償給付請求権と不法行為に基づく損害賠償請求権とは、それぞれ異なつた根拠と独自の性格を持つた請求権であることは当然であるが、また一方、それが業務に起因した障害・疾病に対する損害の填補をなす点で共通性をもつものであることも論ずるまでもなく、労災保険法は、年金給付となる保険給付と損害賠償との関係について調整規定を設け(付則六七条)、被災労働者は同一の事由で損害賠償と保険給付を重複して請求することを制限される制度としているが、公法的債権と私法的債権の二元論からはかような発想が出てくる余地はなく、法の体系は、両請求権の本質的な共通性、類似性を確認しているものである。更に、民法七二四条が類推適用されるとした場合の不都合として被告が指摘するところは、証拠の散逸その他の調査の困難など取るに足りない事務上の都合のみであるばかりか、既に前記高等裁判所判決が原告の主張と同様の結論に達し、被告側はいずれも上告を断念して敗訴を確定させているがこれによつて労災保険給付の実務に大きな混乱を来している事実は聞かない。

3  また、音響刺激曝露の中止後にも難聴の進行する型があることが、被告提出の難聴に関する医学書においても、肯定されているところであつて、症状固定の時期を一律に強烈な騒音を発する場所における作業から離れた日(昭和四六年一〇月二〇日)であるとすることはできない。

4  更に、被告は、騒音性難聴について聴力障害の自覚があれば請求権の行使が可能であると主張するが、これは、聴力障害が進行する時期になつて初めて難聴が自覚される場合が多いこととか、自覚難聴は聴力障害が会話音域に及んで初めて出現するので、本難聴の進展経過からみて、特に強大な騒音環境でない限り、一〇年以内でこれを訴える例は少ないといえることというような騒音性難聴の医学的知見を無視したものであり、徐々に進行する聴力障害については微妙な感覚障害というべきであつて、それが労災保険法上の給付の対象となり得る程度の症状である旨の認識は、よほどの重症者以外にはないものである。

そうとすれば、原告の聴力障害の症状が固定し、原告において右障害に関する障害補償給付を請求することが可能になつた時期は昭和四六年一〇月二〇日よりも後の時期であるというほかはなく、その時期は原告が岩手県立遠野病院における診察によつて、両側感音性難聴の診断を初めて得た昭和六二年三月一一日というべきである。したがつて、このような観点からしても、本件障害補償給付請求権が本件請求の日(昭和六二年三月一六日)には既に時効により消滅していた旨の被告の判断が失当であることは明らかである。

第三証拠 <略>

理由

一  請求原因1は、当事者間に争いがない。

二  請求原因2について

1  原告が難聴であることは、当事者間に争いがない。

2  問題は、その原因であるが、原告本人尋問の結果によつて認められる原告の作業従事状況に<証拠略>を総合すれば、原告の有する両側内耳性難聴の原因が請求原因2記載の騒音職場における騒音に基づくものであると認められるところ、右認定を左右するに足りる証拠は存しない。

もつとも、被告は、<1>原告のオージオグラムは必ずしも騒音性難聴の典型的な特徴を示していない、<2>右診断書等が老人性難聴が加わつている可能性のあることを認め、老人性難聴を否定していない、<3>騒音性難聴であるにしても、兵役に基づくものである可能性がある。<4>老人性難聴に罹患している者の聴力差は著しいので、原告の聴力が他の老人に比べてかなり悪化していたとしても、そのことをもつて直ちに加齢以外の原因による難聴で、しかも騒音に曝露されていたことによる難聴であると判断することはできない、<5>「騒音職場での騒音によるものであることが強く疑われる」との結論も、原告が同医師の診察を受けるに際し、騒音職場に従事したことを申告したため、これに基づいて単に推測したのみで、何ら具体的な診察所見に基づくものではないと思われる、<6>騒音職場を離れてから一七年近くも経過し、七二歳という高齢を考えると、診断時に老人性難聴か騒音性難聴かの判別をすることは到底できるものではないと考えられるなどの疑問を呈するが、そもそも医師の医学上の判断は、その専門性、裁量性から反証のない限り尊重すべきものであるところ、右<1>については、<証拠略>の原告のオージオグラムと<証拠略>の騒音性難聴のオージオグラム例との間に類似性がないとはいえないこと、右<2>は原告が騒音性難聴に罹患していることを否定しているものとはいえないこと、右<3>については原告がどのような騒音に曝露されたかの具体的主張を伴わないものであるうえ、原告本人尋問の結果によれば原告は兵役期間中に騒音性の難聴に罹患するような騒音に曝露されていないことが認められ、その前提を欠くこと、<4>については原告の難聴の原因としては騒音あるいは老人性のもののみが問題とされ、他の原因が論及されていない本件においては、老人性難聴でないことが窺われることは原告の難聴が騒音性のものであることを示すものということができること、<5>については原告のオージオグラムを根拠にそのように診断したと考えるべきで、被告らの主張自体推測に基づくものというほかないこと、<6>についても判別が困難な点があるとはいえても到底できないことについて医学上の根拠を示されていないものであることなど、被告が指摘するところは、反論としては不充分なものでそれ自体右診断の結果に合理的疑いをさしはさませるものではない。

三  時効の主張について

1  当裁判所も、労災保険法四二条の障害補償給付請求権の消滅時効は、当該業務に起因して発生した傷病の症状が固定し、かつ当該労働者が右障害の存在及びそれが業務に起因するものであることを知つた時からその進行を開始するものと解するのを相当と判断する。けだし、右障害補償給付請求権は公法上の権利であるとはいえ、他面実質上不法行為に基づく損害賠償請求権と類似の性質を有するものということができ、したがつて、右請求権の時効の起算点につき労災保険法上明定されていない以上、この点については民法七二四条を類推適用するのが相当であるし、そうでないとすると、障害補償給付の対象となるべき障害の中にはその障害の有無及び業務起因性が必ずしも明白ではなく、容易にそれを知り得ない場合があり、そのような場合にあつては当該障害の存在及びその業務起因性を被災者である労働者が知るまでの間において、当該労働者が補償給付請求権を行使することは現実には期待し得ず、それにもかかわらず消滅時効が進行することになり、障害補償給付請求権は行使の可能性もないまま消滅時効の完成により失われてしまうことになつて、労災保険法が目的とする被災者である労働者の救済とその生活の保障が実現しえなくなり、不都合であるというべきである。これに対して被告は、被告の解釈によつた場合に比べ、鑑別診断の困難や証拠資料の散逸の可能性が多くなる旨を指摘するが、そのような不都合は、進行性疾患の場合においてもまたみられるものであつて、制度上甘受せざるをえないものであり、この点に関する被告の主張は採用できない。

2  そこで、症状固定の時期並びに原告が障害の存在及びその業務起因性を知つた時期について検討する。

(一)  症状固定の時期

(1) <証拠略>を総合すれば、騒音性難聴は、騒音に慢性的に曝露されているうちに、次第に進行してくる難聴であり、騒音曝露によつて障害される部位は内耳であり、内耳におこる病的変化の発生機序は、必ずしも解明されていないが、蝸牛基底回転におけるラセン器の変性と考えられていること、騒音下の作業を離れると増悪しない性質があるという理解が少なくともかつての(現在の定説において同様に考えられているかについては当事者間に争いがあり、以下この項で検討する。)定説であつたこと、以上の事実を認めることができる。

ところで、<証拠略>によれば、信州大学教授である鈴木篤郎は、その著書の中で、サルツマン(Saltzman)及びエルスナー(Ersner)が一九五五年にプログレシブ・デジネレーシヨン・アフタ・サウンド・インジユアリー(progressive degeneration aftersound injury)と称し、音響刺激曝露の中止後にも難聴の進行する型をあげているが、同様なことは、たとえばストマイ中毒による難聴の時などでも生ずることがある、立木らによれば、この型の騒音性難聴は瞬間的音響曝露、短時間曝露、長時間曝露のどのものにも含まれており、聴力像としては高音急墜形や高音漸傾向型が多く、デイツプ(dip)型はほとんどないという旨を記述していることを認めることができる。また、<証拠略>によれば、岩手医科大学教授である立木孝は、その著書の中で、ただ一度の強大音響曝露の場合でも、また長期にわたる職業性の騒音曝露の場合でも、それらの曝露によつて起こつた障害が、その後は騒音の曝露を受けないにもかかわらず、なお進行する例があると考えられていると記述していることを認めることができる。

しかしながら、<証拠略>によれば、右立木は、前記著書の中で、前記記述に引続き、これらの例で難聴の進行や遅発が音響に関係しているということの診断は困難で、そのような形で発生したり進行する難聴が、真にかつて曝露された騒音に由来しているものか否かは確証が全くない、したがつてこの場合、それは騒音に関係のない他の原因による進行性難聴、例えば老人性難聴であると考えたにしても誤りとはいえない、これらの問題の解決にはなお将来の研究を待たなければならない旨を記述していることを認めることができるところであるし、また前記各記述はその体裁からしてそのような見解の存することを記述したにとどまるものと解されるところ、他には音響刺激曝露の中止後にも難聴の進行する型のあることが定説に至つていることを認めるに足りる証拠は存しない。

(2) 原告に現に生じた症状についてみるに、<証拠略>によれば、原告は、削岩夫として訴外会社に勤務し出してから二、三年経過した昭和三七、八年頃には、仕事を終えて帰宅した後においても、機械の音がいつも耳元にあたつているような音で、キーキーとしよつちゆう機械で仕事をしているような状態に感じられる耳鳴りを感じるに至つたこと、それは耳の裏から、頭が絶えずぼうつとしたような気持ちを抱かせるものであつて、そのためにときたま寝られないこともあつたこと、その当時日常会話をするにはそう不自由は感じなかつたもの、集団の中においては、談話や講演等で耳が聞こえないため非常に困るという感じを抱いていたこと、また、妻から、陰の方で聞いているとけんか腰に話しているように聞こえるといわれるなどしたことから、原告自身普通の人に比べ耳が悪くなつたのではないかというような感じを抱いていたが、そのような指摘は起床後職場に赴くまでの間には他との会話がなかつたこともあつて受けなかつたこと、地方、退職後間もないころや現在においても、原告は、その症状が増悪したような印象をもつておらず、現に、現在耳鳴りについては、ときにすることはある程度で日常会話には特に不自由は感じない状態であることを認めることができる。もつとも、同人の供述中には、在職中年毎に悪くなるような印象を持つたかのような部分もあるが、この点については右認定のように訂正しているところであるし、また、聴取書(<証拠略>)中の極く最近における症状に関する部分を対比した場合、耳が遠いが室内では一・五メートル位からの普通会話は分かる旨(昭和五七年一〇月一三日付聴取書)、静かなところ、室内では対話は聞き取ることができる(測定距離一・二五メートル)が、雑音のあるところでは聞き取れないこともある旨(昭和六二年四月一六日付聴取書)向かい合つての対話は一メートルくらいであれば騒音さえなければ聞こえる旨(同年一〇月一九日付聴取書)記載されているが、この程度の表現の差異をもつて増悪したことを認定するには困難が伴うといわざるをえない(仮に、右申述の変化が難聴の増悪を示すものであるとしても、原告本人尋問の結果によつて認められる原告の年齢(大正五年一〇月二〇日生)を考慮した場合、むしろ、その程度の増悪は原告の加齢を原因とするものと推認されるところ、この推認を履すに足りる証拠は存しない。)。

そして、他に原告の症状が、原告が訴外会社を退職し音響刺激曝露が中止された後において進行したことを窺わせる証拠は存しない。

(3) 以上に認定したところを総合すれば、原告の罹患した騒音性難聴は、原告が訴外会社を退職した後においては、増悪しなかつたものと認められることになるから、その退職時(昭和四六年一〇月二〇日)において、症状は固定したものということになる。

(二)  原告がその障害の存在及びそれが業務に起因するものであることを知つた時期

原告が訴外会社に勤務しだしてから二、三年経過した昭和三七、八年頃、妻に指摘されて自分の耳が悪くなつたのではないかという印象を持つたことは前認定のとおりであるところ、原告本人尋問の結果によれば、原告はその当時から激しい騒音の中で働いていれば耳が悪くなるということを知つていたこと、そのため原告は訴外会社に勤務を始めた当初から自ら持参した綿で耳栓をして作業に従事し、その後訴外会社から耳栓が支給されるようになるとこれを使用して作業に従事したこと、原告が訴外会社において勤務していた当時において、原告は訴外会社に勤務する者の中に難聴などの耳の障害を訴える者が複数いることを知つていたこと、原告自身右のような認識をもつに至つた当時から、騒音に曝露される機会は訴外会社以外にはなく右症状が訴外会社で働いた結果であると考えていたことを認めることができるところ、原告本人の供述中の昭和六二年に遠野病院で診察を受ける以前においては、特に自覚症状を持つていなかつたとの部分は、前認定の、原告が、昭和三七、八年頃、既に他の人と比べて耳が悪くなつたのではないかという印象を抱いていたことに照らし採用できないし、他に右認定に反する証拠は存しない(もつとも、原告本人の供述中には、自分が難聴であることを認識したのは昭和六二年に遠野病院で診察を受けたときが初めてであるとする部分があるが、右の昭和三七、八年頃、既に原告の抱いていた印象からして、右供述の趣旨とするところは、それまでは自己の症状の診断名が難聴であることを知らなかつたことに尽きるものと解される。)。

そして、右に認定したところによれば、原告は退職時(昭和四六年一〇月二〇日)以前において、自己の耳の聴力が低下し、かつ、それが業務に起因することを知つていたものというべきである。

これに対して、原告は、徐々に進行するという騒音性難聴の発現態様や、それゆえまた症状自覚が困難であるという特性からして、右疾病の場合は医師の診断があつて初めて、自己の保険給付請求権の存在を知るものであり、それまでの間に権利行使を期待することは無理な注文であると主張するが、難聴が、初期においては、自覚され難いものであるにしても、前認定のような症状を原告が自覚していた以上、原告が医師の診断を受けることには何ら支障は存しないものであり、したがつて、また、その権利を行使することにもなんら障碍はないものであつて、医師の診断のないこと自体は本件障害補償給付請求権の行使についてなんら障碍とならないものといわざるをえない(原告は、医師にかからなかつた理由として、普通の会話はできるし、それ程深刻には考えていなかつた旨供述するが、その程度は前認定のように必ずしも軽微なものと認めることはできない。むしろ、原告本人尋問の結果によれば、それ以前は難聴で労災保険給付が受けられることは知らなかつたが、昭和六二年に、職場の仲間に難聴であればそれが受けられることを教えられたことを契機として、医師の診断を受けたうえその請求を行つていることを認めることができるところ、このことに前認定のようにその症状は増悪していないことを考え併せると、原告が請求を行わなかつたのは、難聴により障害補償給付が支給されることを知らなかつたという法の不知に基づくものと推認されるが、そのような法の不知があつたからといつて、権利の行使に障碍があつたということはできないものである。)。

3  以上によれば、原告の症状は、原告が退職をした昭和四六年一〇月二〇日に固定し、かつ、その頃までに原告はその症状及びそれが業務に起因するものであることを知つていたものと認められることになるから、その時から労災保険法四二条所定の五年後である昭和五一年一〇月二〇日の経過により、本件請求権は時効により消滅したものといわざるをえない。

したがつて、右時効を援用して、本件請求を退けた本件処分は適法である。

四  よつて、原告の請求は理由がないので、これを棄却し、訴訟費用の負担について、行訴法七条、民訴法八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 中田忠男)

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